Van Cleef & Arpels

1906年にパリのヴァンドーム広場で創業した名門ハイジュエラー、ヴァン クリーフ&アーペル(Van Cleef & Arpels)

ネット上の記事では、「アルハンブラなどの愛らしいジュエリー」や「女性が憧れる華やかな宝飾時計」といったイメージが先行しがちです。しかし、時計愛好家やエンジニアの視点から彼らの時計作りの深層を紐解くと、その真の姿は「超絶複雑機構(ハイコンプリケーション)を『正確な時刻を知るため』ではなく、『文字盤上でロマンティックな劇を上演するためだけ』に強引に転用する、狂気のポエティカル・エンジニア集団」であることが浮かび上がってきます。今回は、優雅なジュエリーウォッチの枠を超絶した、ヴァン クリーフ&アーペルの知られざる「美とメカニズムの浪費」について深掘りします。

■ 時刻表示を捨てて「物語」を語るポエティック・コンプリケーション

時計業界において、永久カレンダーやトゥールビヨンといった複雑機構は、一般的に「精度を高めるため」や「技術力を誇示するため」に使われます。しかしヴァン クリーフ&アーペルは、2006年に開始した「ポエティック コンプリケーション(詩的な複雑時計)」コレクションにおいて、その常識を完全に破壊しました。

彼らは、数千万クラスの時計に搭載されるような超複雑メカニズムを、「恋人たちが橋の上でキスをする」「バレリーナが踊る」「宇宙の惑星が軌道を回る」といった、時刻表示とは無関係なロマンティックなストーリーを表現するための「裏方(ギミック)」として贅沢に浪費しています。時計の機能性を極限まで高めた末に、あえて実用性を後回しにするという究極の贅沢です。

■ 「ダブルレトログラード」が生み出す1日2回のキス

その狂気的なロマンティシズムを象徴するのが「ポン デザムルー(恋人たちの橋)」です。この時計は、針が円を描く通常の時計とは異なり、針が扇状に動き、終点に達すると瞬時に起点へと弾け戻る「レトログラード機構」を2つ(ダブルレトログラード)搭載しています。

左側から「時」を示す女性が、右側から「分」を示す男性が、橋の上をゆっくりと歩み寄ります。そして、1日2回、正午と深夜の12時ちょうどに2人は橋の中央で出会い、約1分間のキスを交わします。その後、レトログラードのバネの力で2人は一瞬にして橋の両端へと引き離され、再び長い逢瀬への歩みを始めるのです。

複雑なメカニズムを用いて、恋人たちの焦燥感とドラマを完全再現しています。

■ 針が存在しない!? レトログラードの魔術

ヴァン クリーフ&アーペルのレトログラード機構の使い方は、さらに変態的な領域に達します。

「レディ アーペル バレリーヌ アンシャンテ」というモデルには、一見すると時計の針が存在せず、美しいバレリーナの姿が浮き彫りにされているだけです。しかし、ケースサイドのボタンを押すと、チュチュ(スカート)に重なるように配置された左右のメタルパーツが羽ばたくように持ち上がり、左側で「時」を、右側で「分」を指し示します。そして4秒間静止した後、再び元に戻り、バレリーナが優雅に踊ったかのような余韻を残します。

「フェアリー ルージュ」というモデルでも、妖精の持った「杖」が時を、「羽」が分を示すなど、本来無機質なはずの複雑機構をキャラクターの一部として完全に同化させています。

■ 土星の「29.5年」を刻む狂気のプラネタリウム

彼らのマッドサイエンスは地球上にとどまりません。

「ミッドナイト プラネタリウム ウォッチ」は、文字盤上にプレシャスストーンを用いた「太陽系」を構築した超絶複雑時計です。驚くべきは、これらの惑星が単なる飾りではなく、「実際の宇宙の公転周期と全く同じ速度で文字盤上を回転している」という点です。

水星は88日、金星は224日、地球は365日で1周しますが、最も外側にある土星に至っては「文字盤を1周するのに約29.5年かかる」という、時計として正気の沙汰とは思えない途方もないギア比が組み込まれています。時刻の読み取りを二の次にして、腕元に本物の宇宙の運行法則を閉じ込めた、ロマンの結晶です。

ヴァン クリーフ&アーペルの腕時計は、単に宝石で飾られた美しい時計ではありません。その本質は、スイスの伝統的な超複雑機構を惜しげもなく使い、時計本来の「時刻を知る」という目的すらもロマンティックな演出のためにハッキングしてしまう、「美と機械工学の極限の無駄遣い(極上の賛辞)」なのです。

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