「エル・プリメロ」という伝説的なクロノグラフ・ムーブメントで知られるゼニス(ZENITH)。
ネット上の記事では、「クォーツショックの際に時計師シャルル・ベルモが金型や図面を屋根裏に隠して破棄から救い出した感動の美談」や「かつてロレックスのデイトナに搭載された名機」といったエピソードが必ずと言っていいほど語られます。
しかし、文献から彼らのメカニズム開発の歴史を深掘りすると、その感動的な美談の裏には、「時計の基本構造すら全否定して、狂気的なまでの超高振動(ハイビート)と精度を追い求めるマッド・サイエンスの姿」が見えてきます。今回は、クラシカルな顔立ちの裏に隠された、ゼニスの知られざる「精度とスピードへの異常な執念」についてご紹介します。
■ 伝説の裏にある「毎時3万6000振動」の呪縛
1969年に誕生した世界初の自動巻きクロノグラフ「エル・プリメロ」。このムーブメントの真の凄さは、当時他社が耐久性を優先してロービートを選ぶ中、ゼニスだけが「毎時3万6000振動(1秒間に10振動)」という常軌を逸したハイビートによる超高精度にこだわった点にあります。
これほどの高速振動になると、当然ながら部品の激しい摩耗や油切れという致命的な問題が発生します。しかしゼニスは、長期安定性に優れた特殊なドライ潤滑システムなどを開発することで、この物理的な限界を強引にクリアし、量産化を成功させたのです。
■ 美観かエゴか。文字盤に穴を開ける「オープン」の衝撃
今でこそ文字盤の一部をくり抜いて内部のテンプの動きを見せる「オープンハート」仕様は多くのブランドで採用されていますが、ゼニスにおいてこれを主導したのは、2001年にCEOに就任したティエリー・ナタフです。
彼は、毎時3万6000振動で激しく動く心臓部を見せつけるため、文字盤に大きな穴を開ける「オープン」を考案しました。しかし発表当初、時計業界の常識では「文字盤に穴を開けると、紫外線などで油が拡散・酸化してしまう」という否定的な意見が噴出していました。
それでもゼニスは実用化を押し切り、結果的に大ヒットを記録して時計界の定番デザインを作り上げたのです。
■ 「1秒間に1周」クロノグラフのための別エンジン
ゼニスの精度とスピードへの狂気は、現代に入ってさらに加速しています。「デファイ エル・プリメロ 21」というモデルでは、1/100秒を計測するために、時刻表示用(毎時3万6000振動)とは別に、「毎時36万振動」というバケモノのようなクロノグラフ専用の脱進機構をもう一つ組み込みました。
クロノグラフを作動させると、センターのクロノグラフ秒針が「1秒間で文字盤を1周(回転)する」という、肉眼では捉えきれないほどの猛烈なスピードで暴れ回ります。
■ テンプとヒゲゼンマイの歴史を終わらせる「シリコン製オシレーター」
ついに彼らは、300年以上続いた機械式時計の基本構造すら破壊してしまいます。
「デファイ インベンター」というモデルでは、時計の精度を司る複数のパーツ(テンプやヒゲゼンマイなど)を廃止し、たった1枚の「シリコン製オシレーター(振動子)」に集約してしまいました。このパーツが文字通り震えるように微小に動き、「毎時12万9000振動」という未知の領域のスピードを叩き出します。精度を極めるためなら、伝統的なパーツすら容赦なく捨て去るという姿勢の表れです。
■ ジンバル機構で時計を常に水平に保つ「ゼロGシステム」
極めつけは「アカデミー クリストファー・コロンブス」に搭載された機構です。
時計の姿勢による重力の影響を相殺する「トゥールビヨン」すら不十分と考えたゼニスは、かつて船の揺れから時計を守ったマリンクロノメーターの「ジンバル機構」を腕時計サイズに応用しました。脱進機を球形のケージ(グラビティコントロール機構)に収めることで、腕がどう動こうが常に重力に従って心臓部が「水平」を保ち、重力の影響を完全にゼロにするという「ゼロGシステム」を開発したのです。
さらに一部のモデルには、動力が落ちてもトルクを一定に保つための古典的な「チェーン・フュゼ(鎖引き機構)」まで無理やり組み込んでおり、精度追求への異常なまでの執念を見せつけています。
ゼニスは単なる「美しい美談を持つ老舗ブランド」ではありません。シャルル・ベルモの感動的な物語の裏には、時計の基本構造を解体し、文字盤に穴を開け、心臓部を宙に浮かせてでも「極限の精度とスピード」を追求せずにはいられない、「スイス時計界における究極のスピード狂・マッドサイエンティスト集団」としての顔が隠されているのです。
